追悼・内田裕也


ゆうべのライブで、「裕也なりたい」という曲を歌った。樹木希林へ抱いた感情と、裕也への憧憬や敬意が混同したラブソングだ。去年の夏、作った。

きっかけはyoutubeで樹木希林がクリエイションをバックにして歌った「ロックンロールバカ?」という外道のカバー曲を聴いたからだ。その曲で、「ブスな嫁さんもらったらオッサン一躍有名人」「ヘタな英語で銭儲け」と外道は歌っている。ブスな嫁さんをもらって、下手な英語で銭儲けするロックンロールバカといえばあの人しかいない。その曲を、「ブスな嫁さん」が歌うのだ。なんていい女だろうと思った。だから、裕也になりたいと思った。

うたう前に、「日本のロックの神のことを」と言った。目が覚めたら本当に神になっていた。でも本当は神なんかにならなくてよかった。人間のままでずっと生きていてほしかった。裕也の凄さというのは、神様や天才のそれではない。むしろあきれかえるほどのむき出しの人間臭さだろう。裕也ほど長い時間をかけてロックとは何かを考え続け、深くロックを信じた人はいなかったと思うが、細野晴臣や矢沢永吉やジョー山中らはそこま長い時間をかけてか考えなくてもよかっただろうし、深く信じなくてもよかっただろう。彼らの才気はそこまで考えなくてもいい。普通にやればそれがロックなのだし、それだけの自信もあったはずだ。だが裕也には彼らの才気がない。だからこそ誰よりも長い時間をかけてロックとは何かを熟慮しなければならなかったし、誰よりもロックを信じなければならなかった。

裕也がロックについて巡らせ、あがいた時間の長さと深さを思えばたまらなくいとおしくなる。裕也になりたい、というのはこのあがいた時間への憧憬をも含んでいる。そしてその時間と精神こそがロックであり、逆説的に裕也が神である証拠なのだ。
 
俺は裕也がいつまでも生きていると思っていた。猪木、ディラン、キース、そして裕也。この4人はどんなヨボヨボになっても、100歳を過ぎてもあたりまえのように続けているのだと信じていた。化け物のように生きていて欲しかった。猪木もここ12年でめっきり老け込んだ、信じられないぐらい。ディランとキースにはずっと生きていてほしい。精神性こそがロックであるという前提が俺から薄れない限り、常に内田裕也は俺の精神的支柱であり、憧憬の対象であり、神としてあり続けることでしょう。


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